(02.05.AM02:30追記 PC環境のある方へ http://phimika.silk.to/houraikou.html にHTML形式でもアップしました。 見易いほうでどうぞ) 帯方郡で魏の文官との折衝を終えて出発し十日、狗邪韓国の港を経て海を渡り倭に入る。 航海一日で最初の島に、次の一日で一大国に着き、さらに次の一日――この航海――で彼らの国がある本島に到着と聞かされた凌統は苦笑した。 「こんなに近いなら、魏の奴らでも大丈夫だったんじゃないの?」 「私どももそう申し上げたのですが」 倭の副使・牛利は流暢な言葉でそう返す。率善校尉の位を与えられた彼は倭の他の船員たちとは違い、一見したところでは東夷とはわからない。 「ま、あの人たちは船にはあんまり乗りたくないみたいだからね。足止め食ったあんたたちには悪かったけど、その分船大工なんかも連れて来たからさ」 「帯方の方からも南船北馬とお聞きしております。私ども……特に先の2島などは良田に不足がありますので船を出さねばなりません。呉の船舶技術をご教示いただけるのは有り難いことです」 ですが、と牛利は語尾を濁した。 「よろしいのですか」と。 「なにがだい?」 「公式には私どもが誼を結ぶのは帯方郡――魏です。私どもに技術を伝授するということは、それがそのまま魏に伝わる危険を冒すことになります。違いますか?」 凌統はふと笑った。 「あのさ、あんたが言うような危険をうちの殿やお偉いじい様方が気がついてないわけないでしょ」 「では……?」 「そ。納得済みだよ。だって魏の方も勢力伸ばすチャンスをわざわざこっちに振ってきてるんだ。心の底からかどうかはともかく、信頼してくれてるんだったらこっちだって信頼で返さなきゃいけないだろ?」 「陸丞相は呉の出身とお伺いしておりましたので、その伝手かと思っておりました」 「陸そ……丞相のこと知ってるなら、聞いてない? 元々うちの殿は力で天下取ろうと思えば取れたんだ。でも殿は国の大枠は漢のまま、他の二国も滅ぼさずにそのまま置いて地方の国主に甘んじてる。ただ天子の階に升った大丈夫よりずっと器の大きい方なんだよ」 「陸丞相達と同じことを仰るのですね」 「だって、本当のことだからね」 のろけのような言葉に今度は牛利が小さく笑う。 そして二人のもとに水夫が駆け込んできて、報告した。 「船が見えます! 倭のものではなく、大陸の船のようなのですが」 凌統は牛利の顔を見た。 牛利もまた首を傾げる。 「報せはやってありましたが、迎えが来るとは聞いておりません。……が、もしかして……」 牛利は少し考え、「凌将軍、とにかく甲板に出てみましょう」と言った。 牛利の言葉を受け、凌統は頷いた。 水夫の先導で甲板に出て、問題の船が見える方角を見る。船はすでに矢も届きそうな距離にあるが、攻撃を仕掛けてくる様子はない。 (たしかに、倭の船じゃなくてこっちの……ていうか呉の船……?) 立ち働く水夫にもなんだか見覚えがあるような気がして、凌統は船縁に手をかけ身を乗り出した。 その後ろで牛利がほっと息を吐くのが聞こえる。 「ああ、やはり……難升米様――正使の船を護衛してくださった方ですね。正式の出迎えではなくご好意でしょう」 ふたつの船が向う方向は間逆だ。こちらは倭を、向こうは一大国の方角に進路を取っている。 当然のことながら通常の倍の速さで距離は縮まっていき――向こうの船の中に見慣れた姿を見つけてしまった凌統は思わず声をあげた。 「……甘寧!?」 その凌統の声に気付いたのか姿を見止めたのか、甘寧がこちらに手を振る。 「呉の出身とはお伺いしておりましたが、お知り合いでしたか」 やはり後ろから、牛利が柔らかい声で言った。   *  *  * 「なんであんたがこんなとこにいるんだよ!」 上陸した倭の諸国のひとつ・末蘆国。 水夫や下官のほとんどを下船させた船室で、凌統は甘寧と相対した。 船室に入り二人きりになるなり即、凌統は言った。 何の変わりもわだかまりもない様子の甘寧が小面憎く、声は自然と荒いものになった。 「なんでってお前、あいつらが海賊に襲われてんのを助けたら帯方に行くってんで送ってやって、そしたら陸遜が帰り船団が少なくなるのに荷物は増えて危ないから送ってやれとか言ってきて」 「ああ……そういえば正使はお土産持って先に帰ったって言ってたっけね」 「別にやることもねえしな、正式に雇うってんで金も貰ったぜ。食い扶持も貰ってそれじゃ悪ぃって、こっちの若いのをちょっと鍛えてやったりしてる」 「あ、あんたなに仕出かしてくれてんだよ!」 凌統は甘寧に詰め寄った。 倭と一口に言っても、実態は小さな国の集合体だ。そこでこの近辺の国だけの戦闘力を増加させるような真似をしたらどうなるか。 「下手したら国際問題じゃねえか!」 「なんだよ向こうだって喜んでんだぜ? 別にここが初めてってわけでもねえし」 「へ? なにそれどういうこと……て、あんた呉を出てからなにやってたわけ?」 「なにってお前、俺になにができると思ってんだ?」 甘寧は胸を張って応える。 いやここは威張るところじゃないでしょうよ。凌統は痛み始めた頭に手をやった。 「暴れるしかねえ。けど場所と相手を選べば暴れたって構わねえだろ。賊相手なら遠慮もいらねえ」 「要するに水賊専門の水賊ってことですかい、それで倭か」 「呉の縄張りで暴れるわけにもいかねえ、ってなったらまず東か南だからな」 「でもそんなの呉将としてもやること変わんないでしょ、なんで……」 呉にいたままじゃいけなかったんだ。 凌統はそう続けかけ、はっと気付いて思わず口に手をやった。 甘寧は一瞬驚いた顔をして、そしてそれからひどく真面目な顔で凌統を見た。 「俺は暴れるしか脳がねえ。だから魏と蜀と和平を結んで呉が平和になっちまったら、やることも居場所もねえ。だろ?」 「……国単位の戦いがなくなっても、賊はどこにでもいるよ」 「でがんばればがんばるほど、俺は自分の首を締めるわけだ」 「そんなこと……」 そんなことを考えていたのか、と、そんなことはない、と。ふたつの言葉のどちらも口にすることが出来ず口ごもった凌統を見て、甘寧は口の端を上げる。 「なんだお前、俺に呉にいて欲しかったんならあの時言えばよかったのによ」 「っ、誰がいつそんなこと言ったよ!」 瞬間弾かれたように凌統がそう返すと、甘寧は声をあげて笑った。 「お前、全っ然変わってねえなあ」、と。 「あんたも相変わらず後先考えてないよね」と凌統が呆れたように言うと、甘寧は呉にいた頃には見せたことのない柔らかな笑みを浮かべた。 「ここもな、殿と同じようなことやってんだぜ」 「……?」 「ちょっと聞いただけでも軽く二桁国があって、いくつかは死ぬほど嫌いあっててな。けど、卑弥呼って巫女の婆さん頭に据えてなんとかうまくやってんだ」 話の繋がりは見えなかったが、見たことのない甘寧の様子に凌統は口を挿むことが出来なかった。 甘寧はそれを知ってか知らずか淡々と言葉を続けていく。 「初めて来た時は、ここが蓬莱ってやつかと思った。冬でも生で野菜食える位あったけえし、海に潜れば鮑やら取れる、虎も豹もいねえ。爺さん婆さん多いってことは長生きってことだし、ねーちゃんは大人しいし。……最初に東に向かったってのは、蓬莱の話が頭にあったからかもな」 まあ、と甘寧は続けた。 「ここは婆さん頭にしてるっても殿や陸遜みてえに敵の幸せなんてこと考えてるわけじゃねえから、実態は一触即発なんだけどよ」 「――つまりあんたはここに居つこうって、そういうこと?」 蓬莱――楽園のようでいて暴れる余地のある土地。甘寧の話を総合して、出てくる答えはたった一つだ。 凌統は冷静にそう言った――つもりだった。声に微妙に刺が含まれたのは気付かなかったことにした。 甘寧は、首を横に振った。 「野郎どもの中にはここの女とくっついて家持ったような奴もいる――けど俺は、似通った部分見つけちゃ思い出すのは呉のことだったんだよな」 「……自分で出て行ってなに言ってんだ」 「俺は平和な呉にいちゃいけねえ、いられねえ奴だと思ってたからな」 『思ってた』――甘寧は過去形でそう言った。 凌統はそれに気付いて甘寧の顔を見た。視線が合う。 「今回のことで帯方行って難升米につきあって陸遜に会って、怒られた」 凌統の視線をしっかりと受け止め甘寧は言った。「『あなたは殿の天下がそんな器の小さいものだと思っていたんですか』ってな」 「『魏呉蜀が戦うことなく落ち着けば、外の国々は倭がそうしたように改めて国交を結ぼうとしてくる。貿易も人の行き来も増える、それに伴って賊のような問題も起こる。だからあなたは外を駆けずり回って好きに戦って、そういった問題に対処してください。そして時々呉に帰ればよろしいでしょう』――だと」 「好きに戦えってか。石亭の時みたいだねえ」 案外上手い陸遜の口真似。 だが微妙に険があるのは多分気のせいではないだろう。認め合い和解したといっても、相性の悪さは相変わらずらしい。凌統は苦笑した。 「結局、そういうことなんだよな。俺は俺でいられなくなると思って呉を出た。けど俺のままでいられるんなら、俺にとっての蓬莱は東の海じゃなくて呉にある」 なあ、と。 甘寧は凌統の視線を捕らえたまま言葉を続けた。 「俺、呉に帰ってもいいか?」 瞬間、凌統は応えを返せなかった。 甘寧は凌統を見つめたまま口を開かない。 ややあって、凌統は意識して口の端を上げ斜に構えた表情を作ってみせて、言った。 「それは俺じゃなくて殿にお聞きするべきことでしょ」 甘寧は、ゆっくりと首を横に振った。 「殿は俺が頭を下げて頼めば受け入れてくれる人だ。そりゃお前の方がよく知ってんだろ。陸遜が紹介状も書いてくれてっから、張昭の爺さんあたりもまあ……小言何時間かでカンベンしてくれるだろ」 たぶん、と小さく付け加えられた言葉に凌統は思わず吹き出しかけたが、依然視線を凌統に合わせたままの甘寧がひどく真面目な表情だったので引き込まれるように口をつぐんだ。 「呉に行く前――行ってからも、俺には自分(てめえ)しかなかった。仲間や家族や女なんてその時が楽しけりゃいい、ちょっとでも被さってきたら捨ててける荷でしかなかった。そんな荷物背負っちまったら、自由に暴れられなくなる、俺が俺でなくなるって思ってた」 「けどあんたは呂蒙さんのこと忘れたりしてないだろ」 凌統がそう言うと、甘寧は凌統を見つめたまま小さく笑んだ。 こんな表情も見たことはない。凌統は目を奪われた。 ああ、と。甘寧は呉にいた時には見せたことのなかった笑みを浮かべたまま言った。 「おっさんがいたから、俺は呉にいついた。おっさんの望みだったから、俺は殿の天下を作るために戦った」 甘寧はそこで一度言葉を切った。 合わせたままの視線を外すことなく、今度は大きく笑む。 「お前を見てたから、俺はおっさんを重荷と思わずに……忘れずにいられた。石亭の後お前に言われて初めて、俺は孫呉の一員になったと思う。だから俺にとっちゃ殿でなくてお前が呉の象徴だ」 甘寧はそこで表情を変えた。真摯に、不安げに。そしてもう一度、言った。 「俺、呉に帰ってもいいか?」 凌統はしばらく甘寧を見つめ、そして背を向けた。 船室の中央に配してある卓へと歩を進め、卓の脇に置いてある椅子におもむろに足を組んで腰を下ろし甘寧をねめつける。言った。 「あんた、相変わらずバカだよね」 「……ンだと!」 甘寧は瞬間的にいつもの甘寧に戻り、足音も荒く船室中央の凌統のもとに歩み寄る。ダン、と音を立てて卓に手を置き、着席した凌統を上から覗き込むようにして睨みつけた。 ささいな挑発に簡単に乗って激昂するその姿は凌統が知る甘寧そのままだ。 凌統はまったく怯むことなく真正面からその視線を受けて、言った。 「海を越えてこんな東の果てまで来た上陸遜に怒られてやっとそんな当たり前のことに気がつく、訊かなくてもいいことをわざわざ訊く、バカ以外の何だっつーの。……ああ、大バカか」 甘寧はほとんど反射的に卓に着いていない方の手で凌統の胸倉を掴んだ。凌統は反応しなかった。 真っ向からその険しい視線を受けて見上げていると、ややあって甘寧が視線を外した。胸倉を掴んだ手から力が抜けていく。 『大バカ』という単語に瞬間的に反応し、その後その前の言葉を反芻しているらしい。 (本当、バカだろ) 刻々と変わる甘寧の表情を見上げながら、凌統は心中呟いた。 (殿のことはそれだけわかってて、なんで俺のことはわかってないんだよ) つきりと、胸の奥がわずかに痛み、凌統は戸惑った。甘寧から視線を外す。 今、自分はなにを思った? 凌統は甘寧から視線を外していた――ので、反応できなかった。 どん、と衝撃。衝撃でずれた椅子ががっと鈍い音を立てた。 「ちょ、え、なに」 瞬間凌統の視界に入ったのは甘寧の襟元の黒い羽根だけだった。それから、甘寧の赤い肩当て。 凌統の顔のすぐ脇に甘寧の顔がある。 お互いの肩口に顔を埋めるような形で、圧し掛かるように、というか半分圧し掛かって、甘寧は椅子ごと凌統の身体を両腕に収めている。凌統の身体の下、椅子がみしりと悲鳴を上げた。 凌統が状況を把握する前に、甘寧が言った。 「お前、相変わらず素直じゃないけど正直だよな」 肩口で笑いながらそう言われて、凌統は身を震わせた。 「っ、……耳元で喋るな! つか、痛えし重いし椅子が壊れるっつーの!」 咄嗟に椅子から落ちないようにしがみついた手を甘寧に抱き込まれた状態でなんとか動かし、身を離そうと試みる。 再び笑い声が耳元で聞こえ、そしてそれからふっと重みが遠のいた。 「ようするに、いいってことなんだよな?」 凌統を介抱した甘寧は顔を覗き込むようにしてそう言った。顔には満面の笑み。 その顔を見ていられなくて、凌統はふいと顔ごと視線を逸らした。 そして呟く。 「――あんたの好きにすればいい」 「っとに、素直じゃねえなあ」 笑いながら言った甘寧の言葉に、凌統は頬を紅潮させた。